先日、読んでいる途中だと書いた「流星ワゴン」をもう読み終えた。主に通勤電車で読んでいるのだが、2往復ちょいだから4~5時間で読んだことになるか。これが平均に比して速いのか遅いのか分からないが、とにかくワタシ的にはあっという間に読み終えた。
その前が吉村昭の「破獄」(未読了にて断念)だったから余計読みやすかったというのもあるかもしれない。そして、その読後感だが、少しホロッときて少し泣いたのと、自分も同じ年の父親と合って話してみたくなった。
「読みだして(これは最後に号泣しそう)と思ったらそうでもなかった。」というのを、どこかの誰かが書いた書評で見たのだが、私も全く同感だった。しかし、それが良かったと思う。
どうしてもタイムスリップ物は「未来を良いものに変える」というのがお決まりで、その流れからすると家族が幸せな頃に戻り、ひょっとすると生き変えったり、そこまで行かなくとも現世とあの世で連絡ができたりする流れになる。
そこで号泣するわけだが、この話の世界では「運命は変えられない」ので、号泣するまでの奇跡は起こらない。しかし、現実は変えられなくても、その見方を変えることはできる。このメッセージが私には刺さった。そして、私も同じ年の父親と会ってみたくなった。
私の父は、暴力をふるったり偉ぶったりする以外は、いわゆる「昭和の父親」で、授業参観には来ないし、家にもほとんどいない。そして外で何をやっていたかというと、私の父の場合は博打と女だったようだ。
あまり飲んでいるところは見ていないし、酔ってべろんべろんで帰ってきた姿も見たことはない。そして、母が酒に強く私が酒に弱いのは、父からの遺伝だろうから、父も酒に弱いはずで、家にいないのは酒ではない。
その博打というは、私がパチンコ、競馬と競艇で依存症になって身を崩したのとは違い、父の場合は麻雀だ。時効だから言うが、まあまあのレートで打っていたと思われる。月に10万程度動いていたのではないか。
鳶や左官ではなく図面を書いていたようなので、純然たる「ガテン系」ではないが、建設業界にいたので、博打には親和性がありレートもそれなりだったと思う。また、図面を書いていたと言っても建築士でもなんでもなく、内装が主だったようなので、収入もたいしたことは無かったはずだ。
しかし、あまりその影を感じさせなかったが、メインは離婚の原因となった「女」だったようだ。その女だって、ぶっちゃけあの程度の男だったから、女のレベルも知れたものだったと思う。
それでも聞いてみたい。なぜ、子供の参観に来なかったのか。子供と遊んだことがほとんど無かったのは何故か。子供のことは好きだったのか。家族のことをどう思っていたのか。今の私と同じ56歳の父と話をしてみたい。
もっと遡れるなら、二十歳くらいの父と母が付き合っているところを見てみたい。どんな話をしているのか、どんな仕草をしているのか。あとは、自分が生まれた時の父と母を見てみたい。
何かそう思わせる小説だった。そして想像してみるのだが、何せ父とは話したこともあまり無いし、一緒に遊んだのも家族麻雀くらいで、キャッチボールのひとつもしたことが無いように情報が少なく、何も思い浮かばない。でも間違っていてもいいから、一度考えてみよう。
最後にこれもどこぞのだれかの書評を引用する。
「読みがいがないというか、徒労感だけが残った。私自身が人の親じゃないから共感できなかったのかもしれないけれど。」
これはきっとそうだと思う。自分が親になって初めて考えること、思うことのなんと多いことか。子は本当に自分にとって特別な存在である。もちろん、それは血が繋がっていようといまいと同じこと。ただ、親はそうでもない。特別な存在というよりは、切りたくても切れない特殊な存在だ。
まだ親になる前に読んだ人は、是非とも親になってから読んでほしい。
