日暮れて道遠し

博打のこと、借金のこと、その他いろいろ

「たみちゅう」信長の野望の思い出


「たみちゅう」で検索すると、検索の第一順位に信長の野望、検索上位10位中の8つにやはり信長の野望が表示される。そこまでの市民度を得ている素晴らしい言葉であるのは間違いない。その「たみちゅう」とは「民忠」であり、「あなたの領地に住む人々の忠誠心を表した値です。」(『信長の野望 出陣』のQ&Aより)

私が初めて信長の野望に触れたのは、高校3年の夏、学校の音楽室でのこと。同級生がパソコンとソフトを持ってきて(モニターは学校のを使ったはず)、8人でやったのがそれだった。

ソフトは「信長の野望・全国版」で、初代「信長の野望」が17ヵ国限定で最大プレイヤーが2名なのに対して、この「全国版」では50ヵ国、最大8名まで参加できるのが売りだった。ただし、学校でやる分には時間がかかりすぎるため、マックスの8人でやるが17ヵ国モードでやっていたのを覚えている。

その時はそこまで面白いとも思わなかった。そもそも、負けてしまったプレーヤーは見てるだけになり、私も早々に負けてみてるだけ状態になったので、余計に面白いと思わなかったのかもしれない。

youtu.be



それよりも、その時はPC-8801を持っているが羨ましすぎて(私の家にはPC-6001しかなかった。)、信長の野望をするよりはPC8801を普通に触ってみたかった。この頃、私はパソコン大好き人間で、毎週のように日本橋へ行ってパソコンやデモソフトを見に行っていた。

王者NECPC-8801、9801は当然として、SHARPのX1というテレビの画面に文字が書ける(スーパーインポーズ)という機種があって、いつも憧れていた。本体も真っ赤でこれがまたカッコ良かった。今、考えるとスーパーインポーズも本体がカッコいいのもあまり意味が無いような気もするが、当時はそういうのに憧れたんだよなぁ。

信長の野望」に話を戻すと、最初にやった時はそんなに面白いと思わなかったのだが、ファミコン版「信長の野望」でハマりにハマった。当時9,800円という馬鹿高い値段で売っていたのを、日本橋で探しに探して買い(当時、売り切れ続出だった。)、それこそ毎日遊んだ。

ファミコン版だけにドットは粗いが、面白さには影響ない。ちなみに、メモリが足りない分それをカセットに乗せるため、カセットも値段と同じようにバカ高く、普通のソフトの倍くらい大きかった。「民忠」は「たみ・ちゅう」と表示されていた。たみ・ちゅう…

家では兄弟2人でやったりもしたが、武田と上杉では攻めようがないので、最も南の薩摩藩「島津」と最も北の松前藩「蛎崎」から初めて、どんどん真ん中に攻めていく方式を取っていた。たまに土佐の「長曾我部」と出羽・陸奥の「伊達」などでもやっていたような気がする。

youtu.be



その後、「信長の野望」もそうだし、コーエーとも距離が空いていたのだが、働くようになって初めてのボーナスで買ったSHARPX68000やった「三国志2」をこれもアホほどやった。

その後は、三国志信長の野望も色々続編が出たのだが、私はどれもやっていない。つぎにコーエーのソフトをやったのは、つまらなくなったダビスタ代わりの「ウイニングポスト6」というから、じつに12年も空いている。(三国志2が1990年、ウイポ6が2002年)

その後、私はパソコンおたくでもゲーマーでも無くなり、コーエーとは関係のない人間になってしまった。と思っていたら、我が子が「無双」シリーズで遊んでいるのを見受けた。そんなコーエーもまさかのテクモと合併し、今はコーエテクモゲームスとなった。

私も歳を取ったなぁ。と思って「シブサワ・コウ」がいくつなのか気になって調べてみたら、74歳(2025年現在)という。ただ、今は個人を表す名前だが、当初は東映アニメーション東堂いづみと同じく、開発チーム全体を表すプロデューサー名だったとは驚いた。